人生の転機、あの時があったから今がある (その12)

妻の分まで活きることが、私ができる唯一の感謝の証し!

 

前回は、石川県での2人の生活、妻の趣味を通

じた友達との愉しい想い出と、私の転職の決断

という話でした。

 

転職を機に、歳老いた両親との同居を考えて、

郷里か、他県ののどかなところに就職先がない

か探しました。

しかし、50歳過ぎた就職活動は厳しく、書類

審査だけで数10社から断られ、なかなか決ま

りませんでした。

斡旋業者からは『齢の数だけ応募しないと決ま

りませんよ』と云われていたので、覚悟はして

いましたが、やはりその通りでした。

時間だけはたっぷりあったので、開き直って、

愉しみながら待つことにしました。

山菜採りや、トレッキング、ドライブと2人の

愉しい時間を過ごしました。

 

斡旋業者の勧めで、ある就職説明会に参加しま

した。企業側約20社と就職希望者のお見合い

のような催しで、ある会社の就職担当が、私の

履歴書をまじまじと見ていました。

1ヶ月経って、その会社から面接のお誘いが。

面接の帰りの新幹線で電話がきて『明日、2次

面接に来れますか』と。

2次面接の帰りの新幹線でふたたび電話がきて

『来月から仕事を始められるのなら採用』と。

トントン拍子に、車のヘッドライトを研究開発

及び製造している会社に就職が決まりました。

まずは、研究開発センターがある関東に勤めた

後に、製造工場がある片田舎に転勤する予定で

した。



それから2年が経ったある日、妻からメールが

来て『癌が見つかった』と。

ショックで心が凍りつきそうでした。

なぜ? 食事も気をつけて、ジム通いもして、

健康に気を配っていた妻が、どうして癌に…。

もし私が転職しなかったら、妻の運命は変わっ

ていたのではないか?と、自分を責めました。

帰宅してすぐに妻を抱きしめて、泣き止むまで

ずっとそうしていました。

 

癌治療で評判の病院に行き、精密検査を受けた

その結果は『ステージⅢb』

診察室を出ると妻は『ごめんね』と…。なにも

謝らなくていいのに…。気づいてあげられず、

無力な自分が情けなくなりました。

どう支えたら良いか、気持ちを切替えて、同じ

境遇の病を抱えた伴侶の方の手記などをネット

で調べて、『いつものように接する』ことが、

唯一、私にできることだと悟りました。

それ以来、泣き止むまでだまって抱きしめて、

できるだけ、いつものように接しました。

 

抗がん治療が始まり、脱毛や副作用に苦しんで

いましたが、我慢強く乗り越えて1年2ヶ月の

間、3週間おきの検査と点滴の標準治療を耐え

抜いたその2週間後、無情にも脳に腫瘍が見つ

かり、ステージⅣになってしまいました。

 

その頃には退職後、安曇野に平屋の家を建てて

私の両親と暮らそうと考えていましたが、余命

3年から5年と宣告を受けた妻にどうしたいか

を訊きました。

妻は、両親や弟夫婦がいる故郷に戻りたいと。

長女や長男家族がいる関東から遠く離れるのが

可哀想でしたが、故郷に帰る決心をしました。

 

その翌日は、住宅メーカーの体験宿泊で、長野

に来ていました。

妻は、夫婦で登った中央アルプスの山をしばら

くの間、じっと観ていました。

『もう観ることのない景色』を名残惜しそうに

いつまでも観ていました。淋しく切なく感じて

いたに違いありません。その悲しい胸のうちが

伝わり、目頭が熱くなりました。

 

私は、ふたたび就職活動を始めて、姉が探して

くれたプラントに計測機器や電気設備を設計・

施工する会社に転職を決めて、すぐ土地を探し

契約して、家を建てることにしました。

住宅メーカーは事情を察して、建築期間をでき

るだけ短縮してくれました。

 

しかし癌の進行は早く『余命数10日』と宣告

されてしまいました。

妻の希望で、妻の実家で緩和ケアの在宅介護を

させてもらいました。

 

3月の日差しが温かい晴れの朝、新居の完成を

待たずして、妻は静かに息を引き取りました。

あと、ひとつき経てば、妻が選んだ壁紙、照明

や家具に囲まれた、念願のマイホームに住んで

好きなガーデニングができたのに…。

妻が可哀想で、無念でなりませんでした。

 

葬儀を終えて、妻の想い出の写真やブログを観

ていると、病を知った後の方が、微笑んでいる

写真が多いんです。無理して笑っていたことも

多いと思いますが、残り少ない時間のすべてが

愛おしく、普段のなにげない日々の幸せを感じ

て、笑っていたのかもしれないと…。

 

私は、活きる気力を失いました。この悲しみが

癒えることは一生ないと思います。

でも、『悲しんでばかりいてはいけない!』と

いう、もう一人の自分がいるのです。

『自分らしく、伸び伸びと活きよう』と。

活きたかった妻の分まで活きることが、私がで

きる唯一の妻への感謝の証しなのだから。

 

いつも隣にいてくれたから、今の自分がある。

人生の転機、あの時があったから今がある。

 

            本日は、この辺で。