判っているようで、判っていない自分の性格!

『人から観た自分』と『自分から観た自分』、どちらも自分の一面かも!

 

昨日は、断続的に雨が降り、強風が吹き荒れる

あいにくの天気でした。

庭の花々は風に煽られ、ちょうど満開を迎えた

ライラックのふた房が散ってしまいました。

せめて香りだけでも愉しもうと、拾ってきて、

ガラスコップに入れて部屋に飾ってみました。

 

玄関からカーポートに至るまで、花びらや土砂

で散らかっていたので、プラ箒で掃きました。

雨上がりの朝、少し蒸し暑く、汗ばんできまし

たが、きれいになった庭を観るとすっきりして

気持ちが軽やかになりました。



カーポートを掃いていたら、ふと昔のことを思

い出しました。

もう32年も前になりますが、私達の結婚式に

友人達がリーフレットを準備してくれました。

そこには、私のことを『彼は人が嫌がることを

率先して行っていた』と書かれていました。

嫌なことを率先して行っていた覚えはなくて、

友人が私のことをそんな風に観ていたことに、

驚いたものです。

 

人から観た自分の性格と、自分から観た自分の

性格って、一致しないことがありませんか?

『あなたって○○な人だよね』って云われて、

『そうかなぁ?』って思うことがあるのですが

複数の方から同じように云われると、

『そう観えるんだね』と変に納得したり…😁

 

私が思う自分の性格や行動は、時として『強迫

観念』に基づいていると観ています。

人が嫌がることを行うというよりも、誰かがや

らねばならないという『強迫観念』が私を駆り

立てているのです。

それは『世のため、人のため』みたいな高尚な

考えから生じた行いではなくて、ただ『やらね

ばならない!』と自分を追い込んでしまって、

行動しているだけだと思っています。

そんなことをいちいち力説しても、あまり意味

はないかもしれませんね😀

 

『人から観た自分』と『自分から観た自分』、

どちらも、自分の一面なのかもしれませんね。

こうして歳を取ってみても、自分をまだ判って

いないことがあるのかもしれません。

下村湖人さんが、著書『青年の思索のために』

の中で書いていました。

『どんな人でも、心の至深所にはいつも清
らかな泉がわいている
<<途中省略>> 本気で自分の心を掘れ。
そうしたら、自分がいかに尊貴な存在であ
るかに目覚めるであろう。』

 

            本日は、この辺で。